「人生という極限空間の中で、どう生きるべきか」を描いた
"他者との隔絶"が物語の前提として描かれている
人間に対するリアリズムからはじまっている物語 名越康文
『キャプテン』に限らずスポーツをテーマにしたマンガで、敵対するチーム同士が互いに情報をかく乱したり、欺きあったりするといった敵との隔絶が描かれるのは当然ですよね。
この作品で出色なのは味方との間の隔絶が描かれている点です。たとえば応援団。彼らは墨谷二中がピンチに陥ると、すぐ「もうダメだ」とか「これまではマグレだったんだ」といった具合にシラケ出したり、そしるような発言を吐きはじめます。味方であるはずの者たちが、まずあきらめたり裏切ったりするわけです。
あるいはキャプテンに就任したばかりの谷口が新入部員の前でうまくしゃべれず口ごもっていると、1年生たちがざわつきはじめる。ノックができないでいると「なんだこの野球部は」といった声さえ上がります。丸井にいたってはリコールまでされかかりますよね。
つまりこの物語の主人公たちは、他者との絆はいつなんどき切れてもおかしくない、という緊張感の中に絶えず置かれているのです。それも応援団など野球部外との間だけにとどまらず、野球部内においても。非常にシビアな世界ですよね。
いわば他者と自己との間には、どうしても埋められない宿命的な断絶があるというわけです。この物語の背景には、こうした"他者との断絶"が大前提として描かれているんです。他者というものはいつ自分を裏切るかわからない存在なのだと。スポーツを描いたアニメやマンガは数多くありますが、他者との境界をどこに置くかというシビアさにおいて、ここまで自己を孤立させることからはじめた作品は『キャプテン』をおいてほかにないでしょう。
審判の描き方にも、僕はすごく特殊な印象を受けます。たとえば緊迫感のあるクロスプレーの判定において、他の野球マンガでは審判は真実を告げる者として存在していると思うんです。ところが『キャプテン』ではアウトかセーフの判定は偶然性に非常に支配されているように描かれている気がする。どれだけ努力してギリギリのところまで人知を尽くしても、勝利がどちらに転がりこむかは最後までわからないと。
審判が判定を下す直前の静まり返ったシーンには、世界がどちらに微笑むかなどまったく恣意的なのだという、ものすごくシニカルなペシミズムが漂っているように思うんです。
世界と自己との間に物語を通じての馴れ合いを決して作らない。それが『キャプテン』の世界観のきわだった特徴といえるでしょう。だから何年かぶりに読み返してみてもノスタルジックさが全然ない。10代、20代、30代、40代と、年齢による経験のちがいによって物語の見え方がまったく異なってくるんですね。極限空間に踏みとどまり呼吸するために特訓する
墨谷二中ナインが勝負を挑む"試合"という空間もまた、谷口たちにはじめから微笑んでくれることなど決してない、非常に隔絶とした場所として描かれています。そこにいるだけで平常心を失ってしまうような、緊張感あふれる"魔界"といったらいいでしょうか。
彼らが毎日あれほどまでに厳しい特訓を続けるのは、この"試合"という高密度な重力場に耐えうる精神的な強度を身につけるためだと思うんです。極限状態の中に身を置いて、その恐怖にいかに立ち向かうことができるか。そのために彼らは来る日も来る日も特訓を繰り返すんです。息が詰まって逃げ出したくなるような極限状態の中で、しっかり呼吸できるように。野球がうまくなるためでも、相手の戦略を判断してかけひきするためでもないんですね。
誰もが平常心を失い、異常な精神状態にまで追い詰められてしまう極限空間において、かろうじてでも呼吸するためには特訓を乗り切るしかないんだというわけです。
それが最も明確に表れているのが、延長18回までもつれた青葉との試合です。このときマウンドに登ったイガラシの姿を見てください。「ハァハァハァ…」と、ひたすら荒い呼吸をし続けていますよね。表面的には、息も上がってしまいそうなほど辛いハードな試合を物語る描写としてとらえることができますが、逆にいえば彼は"何とか呼吸できている"ということができます。厳しい特訓を繰り返してきたからこそ、その場に立ち続け、息をしていられるわけですね。
これこそが『キャプテン』という作品の最も根本的なテーマなのではないでしょうか。試合に勝つ、大会に優勝するというのは表層的なテーマにすぎないんです。
呼吸することすら困難な恐るべき重力場の中で、しっかり踏みとどまって立ち続けることができるか。
この問いかけ、そのまま人生に置き換えることができますよね。すなわち、プレッシャーの中でやらなければならない課題から目を逸らすことなく、最後まで逃げ出さずに闘い抜くことができるかと。そして、それこそが人生を生きるための最も大きな勇気であり、人生を"生き抜く"ことそのものなのだと。
こうした「生きるとはどういうことなのか」という人間の根源的なテーマを、繰り返し繰り返し描いたのが『キャプテン』という作品なのではないかと、僕は思うんです。"強さ"ではなく"復活"の可能性
主題歌の中に「秘めた力、自分じゃわからないよ」というくだりがあります。表面的には"可能性に賭けよう"という意味ですが、裏を返せばそれは"自分自身も自分のことなど知らない"というある種の自己否定感といえます。
原作では谷口にせよ丸井にせよ、登場するキャラクターたちはみなしっかりとした線では描かれていませんよね。ともすれば消え入りそうな線で描かれている印象を受けます。しかし、それこそが作者の人生観だったのではないでしょうか。人間とは弱々しいものなのだと。
そんな弱々しい人間が、自分というものを認知するためには、世界に対して働きかけていく必要があります。ところがその世界を構成するのは、他者との絶対的な乖離、そして制御できない圧倒的な極限空間。世界とは恐るべき場所だったんです。
谷口たちは特訓という形で、こうした世界に対して自己を開示し、働きかけていきます。しかし激しい特訓を重ね、どんなに自信をもって試合に臨んでも、青葉をはじめとした敵はそれ以上に強大に見え、積み上げた自信など簡単に吹き飛ばされてしまう。どれほど耐えに耐え抜いた努力も、敵のたった一球で一瞬にして消え去ってしまうんですね。
実際、仕事でも勉強でも、自信をなくすときって部分ではなく全部を失ってしまう感じがしますよね。これまでの自分の努力はまちがってたのではないかとさえ思ってしまう。そうした人間の真実が『キャプテン』では非常に明確に描かれています。
たとえ「100」あった自信でも、強大な相手を前にしたとき、瞬時にそれはゼロになってしまう。それが人間の精神的な世界の真実なのです。
これを克服するためには、まずとりかかることだと、作者は言っています。そして特訓をくぐり抜ける過程で、彼らはあることを信じられるようになる。それは"強さ"というより"復活"ということだと思います。
「俺たちはこれだけの特訓をやってきたんだ」と丸井がいいますよね。試合が極限なら、特訓はいわば疑似極限。恐怖を繰り返し体験することによってはじめて、自己がガラスのようにもろく崩壊してしまっても、そこから復活できるんです。ガラスのようにもろい自己が強くなるのではなく、ガラスのように壊れても何度も何度も復活できるのだと少しずつ信じられるようになるんです。
『キャプテン』の真に迫るリアリズムは、そんな人間の精神性の真実をキチンと描いている点にあるのではないでしょうか。